のとキリシマツツジとは、能登にあるキリシマツツジのことです。
だからなに?ツツジの趣味の話?と思うかもしれませんね。でもそれだけではありません。もっと広くだれの心にも届く楽しみであり、一度見たら忘れられない色彩であり、それを育む能登に深く根ざした存在なのです。
その魅力
能登半島はキリシマツツジの日本一の集積地です。樹齢百年以上の古木が500本以上点在しています。ツツジの研究者も驚いた木の大きさと品種の多さ。中でも樹齢三百年以上の大木は山のような存在感で初めて見る人を圧倒します。満開を見て心が動かない人はいないと思います。
印象的な『深紅』の花色。人の心を魅了する「赤」。写真では決して再現できない赤。枝先に咲く花が葉を覆い隠すので木全体が紅一色の半球形になります。色違いや変異も含め7品種3系統が確認されています。
ちょうど田に水を湛えた農村に深紅の大木が点在する風景は春の能登ならでは。しかも個人の家にある庭木であることも他にない特徴です。
のとキリシマツツジの花期は5月、特に5月上旬~中旬が見頃です。能登半島を南部から北部へ、海沿いから山間部へ順々に咲いていきます。それぞれの花木の満開は5日間、見頃は10日間、適期は14日ほどで地域ごとに花期がずれてきます。能登半島は南北に長く、またその年の天候にもよるので一通りではありません。また雨で退色してしまいます。それだけに極盛期の満開に遭遇した感動はひとしおです。
満開ののとキリシマツツジを巡る能登ならではの旅はいかがですか。
その希少性
キリシマツツジはそもそも江戸霧島という園芸品種で江戸時代に作り出されました。世界最高水準の園芸文化を極めた江戸に霧島山からキリシマツツジ(本霧島?)が入った1656年以降、品種改良され日本中で大流行しました。キリシマツツジ(江戸霧島品種群)は1730年代に能登へ伝来しています。
では能登以外の地域でキリシマツツジがほとんど消滅しているのはなぜでしょうか。それは園芸品種の宿命。庭にも流行があって植木を植え替えることはよくあります。かつて一世を風靡したキリシマツツジもやがて後発のクルメツツジの人気に押されて現在はほとんど残っていません。しかし能登は違っていました。
風土の象徴
のとキリシマツツジは一軒一軒の名家や農家に守り育てられてきました。何世代も途切れることなく花を愛でる文化を受け継いでいます。成長がとても遅い木であるのにも関わらず能登半島に山のような大木がたくさんあるのは先祖代々の家を守るごとくキリシマツツジを守ってきたことを物語っています。
能登では桜よりもキリシマツツジを心待ちにしていました。旧家の証ともいえる大木、名木を分け合いながら育てる集落、嫁入りに持たせた地域があります。奥庭や裏山に植えて密やかに愛でたというのも質素で奥ゆかしい気風を表しています。
のとキリシマツツジはただ咲いていません。たまたま能登の気候風土に合っていた部分と手をかけて守るべきことがあります。最大の敵は雪。積雪の重みで枝が折れ潰れた樹形のキリシマツツジを近年は雪囲いする人も多くなりました。また施肥、剪定、水やり、コケの除去など手間をいとわぬ能登人の粘り強さがキリシマツツジを残しました。たった10日しか咲かない花のための355日の手入れ、能登人の内に秘めた情熱を表す深紅の花なのです。
能登の歴史と人間性をも示す「のとキリシマツツジ」は風土文化そのものです。
継承に向けて
ところで過疎高齢化は能登でも例外ではありません。花を大切にしていた先代が亡くなり空き家になると庭のキリシマツツジも放置され、中には枯死する木も出始めました。移植や転売も行われています。何百年も当然のごとく受け継がれてきたものが、平成の現在を境に失われゆくのかもしれません。のとキリシマツツジの課題はそのまま地域を映す鏡なのです。
今、深紅の花に魅せられた地域の有志たちによる長年の尽力が実を結び、のとキリシマツツジの魅力と真価が全国に伝わりはじめています。植栽・診断・保全・研究・地域内連携など地元での活動を充実させる一方、各地でシンポジウムを開いて啓蒙活動を実施。持ち主が自宅の庭を開放する「のとキリシマツツジ・オープンガーデン」や能登空港で恒例の「のとキリシマツツジ・フェスティバル」も開催されています。花を見に全国から訪れる人々と交流することは所有者の大きな励みとなっています。
園芸品種に過ぎなかったキリシマツツジが数百年の時を経た今、能登の風土の象徴「のとキリシマツツジ」となって、私たちの眼前に現れています。花言葉は「燃え上がる愛」。
ならばこそ、のとキリシマツツジを見るがに能登へ来まっし。