「のとキリシマツツジ」の品種構成・分布と新しい系統(新潟県立植物園副園長 倉重祐二)

(平成24年3月4日京都府立植物公園にて発表)

私はツツジの研究を専門にしておりまして、宮本理事長から能登のキリシマツツジを調査してほしいと新潟県立植物園に電話をいただいたのが、2006年の春のことでした。

実は年に何回か「うちのツツジはすごいから見に来てくれ」という電話があるのですが、行くとたいていがっかりするんで、適当に答えて断ってしまうことが多いのです。しかし、能登という遠い所からですし、とても熱心なお誘いを受けたので、騙されたと思って島根大学の小林先生をお誘いして出かけました。

私はツツジの研究を30年近くやっていますが、能登のツツジについて書かれた記録はそれまで見たことがありませんでした。どんなもんだろうと思って行ってみたら驚きました。でかい。そしていっぱいある。これは素晴らしいものだということで調査をはじめました。

能登で「のとキリシマツツジ」と呼んでいるツツジは、実際は1品種ではありません。調べてみるとたくさんの種類がありました。それがどんな品種なのかをはっきりさせようというのが、最初の目的の一つでした。

もう一つは、普通ですとツツジの古木は京都でも神社ですとかお寺ですとか、そういう所に多いのですが、能登の場合はお宅の裏庭にあります。裏側ですから道からだと見えないんですね。私が調査に行った中で印象的だったのは、五六軒しか離れていないお宅でお互いキリシマの古い木があるのを知らないことでした。花も一週間ほどで終わりますので、その時期にそのお宅にお邪魔しなければお互いになかなか気づきません。こんなことで、どこに植えられているのかを正確に調べる必要があると考えました。「のとキリシマツツジ」がどんな品種で構成されているのか、どこに分布しているのか、まずはその2つを目的に調査をはじめたのです。

さらに調べていくと、能登だけではなく、京都を含めて全国各地にキリシマツツジの古木があることが分かってきました。ここに書きましたが、全国の古木を比較することで、江戸時代にツツジの園芸品種がどうやって各地に伝わったのか、もしかしたら北前船で、それとも参勤交代で、両方かもしれません。そういうことが、能登を中心としたツツジの調査で分かるのではないかと考えました。園芸文化の地域交流ですね。

もう一つ、ツツジのいろいろな園芸品種、京都府立植物園にも300年も前に作出された「大紫」などが植えられていますが、どうやってつくられたかは分からない。ツツジの園芸品種の起源を明らかにしていこうというのも研究の目的の一つです。こうして能登だけではない話にだんだん発展していっています。

ツツジの流行と江戸キリシマの発達

ではまず、ツツジを中心とした江戸時代の園芸についてお話しようよ思います。

戦乱の世が終わり、江戸時代も中期になると、人々の生活も落ち着いてきて、豊かでしかも余暇の時間ができるようになりました。現在でも暇で、お金もあるというと、健康ですとか、余暇の時間をどう過ごすかとかいうことに興味が向いていきますよね。江戸時代中期もそういう時代で、例えば園芸ですとか茶道、華道、文学、そういうものが大きく発展しました。

今の時代に日本らしいと思うような植物、ツバキ、ボタンやカエデとかハナショウブ、キクなどは、今と変わらないような園芸品種がつくられたのが江戸時代です。幕末に日本を訪れた植物の専門家も世界最高水準の園芸文化だと日本を讃えています。

また、日本独自の園芸文化が築かれたのも江戸時代です。その特徴の一つが人工的に交配して、例えば赤い花と白い花を交配してピンクの花をつくらなかったと言うことです。虫が花粉を運んで交配してできた種子から生えて、たまたま珍しい種類が出れば、それに名前をつけるようなことで品種改良が行われていました。

もう一つが突然変異の利用です。葉に斑が入ったとか、花が八重になったとか、こういうものも珍重されました。

加えて、独自の美意識を持っていた。毎年新潟県立植物園で変化朝顔を展示していますが、葉がチリチリになっていますし、花も変な形ですので、「枯れているんじゃないですか」とか「水が足りないんじゃないですか」とかお客さんに言われます。オモトなどもそうですが、一見するときれいではないし、その価値が分かりにくい植物、こういうものを良しとする文化が江戸時代にはありました。

花菖蒲は数多くの園芸品種がありますが、日本に自生するノハナショウブ1種からつくられたとされています。サクラソウも自生の中の変異を集めて名前をつけています。このように他の物と交配して新しい品種をつくったのではないというのが江戸時代の園芸の特徴です。

さて、そういう時代の中でツツジですが、寛文から元禄(1661〜1704年)に大流行しています。今残っているような品種は、ほとんどこの時代に出ています。たった30年、40年くらいの間に、モチツツジの切れ弁になった「花車」、ヤマツツジの八重咲「立千重」、「大紫」、ヤマツツジの花びらがなくなった「金蕊」、これは「大」という字にヤマツツジの花びらの形が変化した「大文字山」、このようにいろいろな品種がたくさん現れて大流行しました。

それらの中でも「本霧島」は、階下の展示会でご覧になったと思いますが、花が真っ赤で、江戸時代には最も評価の高いツツジでした。

「本霧島」は霧島山から運ばれて、江戸に入りました。その後に江戸でいろいろな園芸品種ができて、それらが各地に広がったとされます。江戸を中心に品種分化が進みましたので、これらをまとめて「江戸キリシマ品種群」と呼んでいます。その元となった「本霧島」の由来はについて伝えられている話は以下の通りです。

「本霧島」、当時は単に「霧島」と呼ばれていましたが、正保年間(1644〜1648)に薩摩から大阪へ運ばれ、そこで取り木で5株に分けられた。1656年、2本は京都の御所に上りました。京都の御所に聞いてみましたら、現在「本霧島」はないそうです。残りの3本は江戸染井(東京都豊島区)の伊藤伊兵衛という当時の有名な園芸家の所の庭に移されたと伝えられます。350年くらい前には京都と江戸にはオリジナルの「本霧島」があったはずですが、残念ながらどちらも現存しません。

ツツジの流行は、時代から見ると「本霧島」が江戸に入った後だと思いますが、江戸キリシマ品種群だけではなく、さまざまなツツジが現れました。この「花壇綱目」は1681年に版行された日本で最初の園芸書ですが、これを見るとツツジが147品種も載っていますので、すでに流行していたことが分かります。その中に「きりしま」と名前のつくものが15品種あります。

その後に出た世界最初のツツジの専門書に「錦繍枕」という本があります。この中に「つつじ」174、「さつき」163品種が掲載されています。たくさんの種類がありますので、この当時大まかに今の4月から5月に咲くものを「つつじ」、5月の終わりから6月と遅く咲くものを「さつき」と大きく種類を分けたんですね。その区分が今でも残っています。

さて、その「錦繍枕」には「きりしま」のつく品種名が20も出ています。「霧嶋」、「紫きり嶋」、「二順きり嶋」、「八重きり嶋」が能登で見つかっています。当時の伊藤伊兵衛の庭と思われる絵をみると、道沿いに赤いのがずらっと並んでいる、これが全て「霧島」だったとされます。商売をしながらツツジも見せて、植物園兼お花屋さん、植木屋さんみたいなものだったんですね。いかに流行っていたのかが分かります。

資料を調べてみると、1730年代には「霧島」(本霧島)が日本各地に広がって行ったことが分かっています。その後、1818年、文政年間には染井の伊藤伊兵衛の庭の「本霧島」のオリジナルの3株はなくなっていたということです。ツツジの栽培は東京の大久保に中心が移って、それが明治まで続きました。

皆さん、クルメツツジをご存知だと思います。江戸後期に福岡の久留米でできた品種群ですが、花色が豊富で鮮やかですので、大正時代になると人気が出て、だんだんと江戸キリシマの栽培は少なくなりました。そのため、江戸キリシマの古木は現在ほとんど残っていませんし、江戸時代の記録にあった園芸品種もなくなっているというのが現状です。その中で、能登に残る江戸キリシマの品種、これを地域で「のとキリシマツツジ」と呼んでいます。

江戸キリシマの分布

江戸キリシマツツジ(のとキリシマツツジ)がどこに分布しているのか、まずは残されている江戸時代の「産物帳」を調べてみました。よく江戸時代にトキがどこにいたというような分布図が出ますが、それも産物帳を調べているのだと思います。

産物調査は1735年からはじめられましたが、これは幕府が各藩に、生えている草木、育てている作物、鳥や動物、昆虫等々、何でもあげなさいという命令をして行われたものです。その記録を見ると、その当時どういうものが、どこにあったかというのが分かります。その調査結果が加賀藩だと1737年の「郡方産物帳」、新潟だと1756年の「越後名寄」という名前で残っています。

各地の産物帳の「きりしま」(現在の本霧島)をキーワードにして調べてみました。「きりしま」はかなり広い地域にあったということが分かります。1730年代には、既に「本霧島」が全国に広まっていたということがお分かりいただけるかと思います。

次に、現在の石川県での分布図を調べてみました。現在の100年以上と推定される古木は、金沢から中能登にはほとんどなく、能登半島の先端の方に集中していました。特に半島の先端部、珠洲市ですとか能登町に特に多いことがわかります。普通に考えると、文化や産業の中心である金沢の周辺に残っていそうなものですが、なぜ能登なのか不思議に思いました。

古木の分布図を市町村別に見ると、能登町が99個体、珠洲市が65、輪島市51と多いのですが、七尾ですと中能登にいくともう十いくつですとか、極端に少なくなってきます。

能登半島の先端に近い地域に古木が集中しているということから、もしかしたら金沢の方から陸路で上がってきたのが残ったのかも知れないし、もしかしたら北前船で運ばれて広がっていったのかもしれません。船で「きりしま」を運んだという帳面などの資料があれば分かるのですが、出てきてませんので今のところは推測ですが、陸路以外にも海路で運ばれた可能性もあるのではないかと考えています。

分布の調査をして分かったのですが、最近また増えて500本ぐらいあるということですが、私どもが調査した時点では100年以上の古木が300本以上あることが分かりましたので、これは日本一の規模と言えると思います。寺社などではなく人家の裏庭に残っているというのも能登の特徴だと思います。また、近隣で同じ品種が栽培されている傾向があるということも分かりました。

江戸キリシマツツジの古木は、京都にもあると思います。これまでに何か所かで調査を行いましたが、京都で赤い花が咲いている大きなツツジの木があれば是非情報の提供をお願いします。

のとキリシマツツジの品種構成

さて、もう一つ。能登にはたくさんの「のとキリシマツツジ」が分布するのは分かったけれど、では実際どんな品種で構成されているのでしょうか。

調べてみると、名前が分かっているのが7品種、一重の「本霧島」、不完全二重でがくが中途半端に花弁した「蓑霧島」と「二順霧島」、「四季咲霧島」、「紅霧島」、非常に珍しい「紫霧島」を確認しています。

不明の品種についてご説明します。「本霧島」の花は真っ赤なのですが、それよりもちょっと色が薄く、朱色に近い「けら性」と呼ばれる系統を能登で数多く発見しました。一重、不完全二重、完全二重がありますので、最初は一重は「田舎げら」、不完全二重は「蓑げら霧島」、二重は「八重げら」と思っていましたが、同じ一重や二重でも、場所によって花色や花形が違いますし、文献を調べると命名品種とは花形や開花期も違うことが分かりました。このことから能登には品種名がついていない、複数の系統の「けら性」の個体が数多く存在することが分かりました。これらの中に能登独自の新種があるだろうと、全国各地のけら性と比較したところ、二重咲きで、花が良いものがありましたので「紅重」と命名しました。

では能登に残る江戸キリシマ品種群を見ていきましょう。

「本霧島」。これが江戸時代に霧島から大阪経由で江戸に運ばれた「霧島」そのものだろうと言われています。小林先生のDNAの分析でも全国各地の「本霧島」で同じパターンが出ましたし、私たちが見ても同じですので、霧島から江戸に入った1株が日本国中に広まったと考えています。深紅の一重の花です。

「二重霧島」。ツツジの特徴的な変異なのですが、がくが花びらのように変化した品種です。花の外側の白い部分ががくです。蕾のころから咲きはじめは真っ白で、咲き進むにしたがってだんだん赤くなっていきます。「錦繍枕」にも出てくる古い品種です。

「蓑霧島」。これもがくが花弁化した品種で、腰蓑を巻いたように見えるので、蓑咲きや腰蓑咲きと言います。花のように見えますが、花が落ちた後の咢です。花びらのように変化していますが、完全に花弁の大きさになっていないのがお分かりになると思います。

「八重霧島」。咢が完全に花びらに変化しています。正面から見ると、花の中に花が咲いているように見えます。以上が「本霧島」の花形違いの品種です。

「紫霧島」。「錦繍枕」にも書かれている古品種なのですが、大きな木は全国でも5本ぐらいしか見つかっていない珍しい品種です。展示会で小さい株を展示していますが、江戸キリシマ品種群には珍しい紫色の品種です。

先ほど申し上げた「本霧島」ほど赤くはないけれど、ヤマツツジよりは花色が濃い、というものが能登で多数見つかっています。「本霧島」に比べてちょっと色が冴えないので「けら性」と呼ばれています。しかし、一口に「けら性」と言っても、花色が薄いものから濃いもの、花が大きいもの、小さいもの、花びらの先が尖っているものなど、それぞれが違うんですね。一重の花、次が二重の花です。

「けら性」の二重の中で、特に色が濃くて、正面から見るとまん丸い花を咲かせるすばらしい株がありました。他では見つかっていませんので、これに「紅重」という名前をつけて発表しました。

能登の代表的な古木

私の話は品種と分布の話ですのでこのぐらいにして、最後に能登の代表的な古木を紹介しようと思います。

たぶん日本で一番大きい池上家の「本霧島」は、大正時代の国の天然記念物調査時には、高さ9メートル、幅11メートルだったと記録に残っている輪島市の古木です。これは石川県の天然記念物になっていますが、木は無くなってしまいました。こういう大きな木があったんですね。この木の子供が残っていて調べたところ、品種は「本霧島」でした。

現存する中で日本最大と思われる珠洲市の池上さんのお宅の「本霧島」は石川県の天然記念物に指定されています。

大きな志賀町の「本霧島」は、一株から一重や腰蓑、二重の花が咲く株です。能登町の天然記念物に指定されています。樹高は3m以上あります。

輪島市の品種名がない「けら性」の二重咲きの古木は、お宅に誰も住んでいなくて、母屋が焼けたか、倒れたかして無くなってはじめて裏庭に植えてあったことが分かりました。まだこんなに大きな木が見つかるんですね。

駆け足にはなりましたが、1)能登には「のとキリシマツツジ」と呼ばれる江戸キリシマ系ツツジの園芸品種が個人のお宅に500株ほどある。日本一の規模であろう。2)能登半島の先端に集中して分布している、3)一口に「けら性」が数多くある、4)能登独自の優秀な個体に「紅重」と命名した品種を発表したことがお分かりいただけたと思います。

皆さん是非奥能登へお越しください。私も毎年のように行きますが、ツツジだけでなく日本のなつかしい風景が残る非常にいい所です。

これで私のお話を終わりにいたします。