池上宝蔵さん(珠洲市大谷)

池上宝蔵【PROFILE】いけがみ・ほうぞう

大正12年生まれ。珠洲市大谷57。

「ずっと守ってきた。守り甲斐があった。」

山間の豪農屋敷の裏庭に本霧島の大木がいくつもあって壮観です。石川県指定天然記念物です。

「切り詰めた暮らしばかりの戦争が終わり、親の由太郎から「いよいよ花の時代が来たわいや。お前に管理を任す」と言われた。こうしてキリシマツツジを世話することになったが、下手なモン預かったなあ、何の足しにならんものを祖先が残してったなあと思うた。昭和40年頃までは花見もだれも来んでただ守るがにやってきた。本当によう守ってきたなあと自分でも思う。」

ikegami1「キリシマツツジを受け継いだんだから自分らしいことをしたいと思い、雪に潰されてスイレンのように倒れて広がっていた枝を十数年かけて上向かせて姿勢を直した。そうして枝を起こしたら美しくなったけどそのかわり雪に弱くなった。大雪の日は一晩寝られん。寝床に入られんからコタツで丸くなって待機した。目覚まし時計で時間を変えながら起きて500Wライトで照らして見張った。夜中でも雪を叩きに行った。季節外れの大雪で太い枝が2本折れて捨てたことがあったが失敗したのはその1回だけ。人の知らん苦労をしてきた。」

ー池上家のキリシマツツジの由来をお聞かせください。

「当家のキリシマツツジの由来は幕末の元治元年(1864年)、宇出津の山間部にあった4株を海路で大谷まで運びそこから陸路でここまで運び上げた。二人並んで歩けんような細い道を4人で担いで上った。交替の2人を含め6人がかりで1日1本ずつ運んだ。運ぶのが大変で道も通らなかったため3尺に切り詰めてしまったそうだ。キリシマツツジの値段は問題ではなかったが運ぶ費用で結局大赤字だった。」

ikegami2「今は4戸ほどのこの在所も私が子供の頃は16戸あった。海が見える場所を求めて元の在所からここへ移り住んだのが始まりと聞く。幕末の頃、70石の偉様(大地主)がおったが時代の機微を察して東京へ移ることになって田は黒丸へ売り、屋敷は当時番頭をしていた池上家の先祖三松(さんまつ)が買うことになった。在所にはキリシマツツジがいくつもあったので大きな屋敷にふさわしいものを手に入れたいと思ったんだろうが、いざ植えるとなると周りを気にして裏庭に植えた。」

ーいつ頃から人が見に来るようになったんですか?

「昭和42年に珠洲で最後の車道がとうとう在所まで通った。キリシマの評判は広がっていたようで早速その年に輪島から10人の花見団が車でやってきた。前夜の連絡だったので慌てて夜中に草むしりをした。次の年は10倍来た。年々見物人は増えた。市外県外からも来るようになった。今では団体が必ず来るキリシマツツジの花見の名所になった。団体予約には座敷も開放して雰囲気を味わってもらっている。県知事・放送局・音楽関係者が来た。九州から霧島市の使節団も来た。満開を祝う雅楽のイベントもある。特にうれしかったのは昨年(2013年)、富山県八尾市のおわら風の盆から庵進(いおりすすむ)先生御一行22が満開の庭で踊りを披露してくれたこと。珠洲市飯田では八尾と二十年来のつきあいがある。何も知らされてなかったので驚いたが、深紅のツツジと風の盆の組み合わせは素晴らしく、うれしかった。キリシマを守ってきた甲斐があった。」

ーキリシマツツジの継承についてはどうですか?

ikegami3「県の天然記念物ということで、大谷の有志の人が助けてくれる。ツツジが大きくなった今となっては雪吊りが大掛かりで私だけではできない。4年前の大雪では地元の建設会社の人が十数名で雪をどけてくれたおかげでキリシマは命を拾った。今年の春(2014年)から東京の息子が帰って来てキリシマの管理を手伝ってくれる。冬の3ヶ月はずっといることになっている。そんでもこの山に一軒だけ残ってキリシマの世話するのも限界。どこかに移植することも考えなあいかんかもしれん。」

「しかしキリシマにはここの土が合っとる。キリシマツツジにとってここは全ての条件が100%いや120%合っている。アテの木陰、間から日光、日陰で乾燥せず、池の水蒸気・・・。どんな時も葉は青々とし、よく育つ。ここなればこそ。達者だとよく言われるが私もキリシマに生かされとるか、自然に生かされとる。」

のとキリシマツツジを体現しているような池上さんはいつも温かく迎えてくれます。そんなお人柄も大谷ののとキリシマツツジの魅力のひとつになって、人は半島先端の急峻な山道をいとわずに訪れるのでしょう。開花期にはオープンガーデンとして開放されています。